古典文学史において最もドラマチックな逸話として語り継がれるのが、百人一首40番と41番に並ぶ平兼盛と壬生忠見の対決です。村上天皇が主催した天徳四年(960年)の内裏歌合において、両者は「忍ぶ恋」という同じお題で激突しました。
壬生忠見は判定負けのショックで本当に衰弱死したのか?
鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』や『古今著聞集』には、衝撃的な後日談が記されています。忠見は兼盛の「しのぶれど」に敗れたことで深く絶望し、食事が喉を通らなくなってそのまま衰弱死(憤死)したという伝説です。長年、ネット上のまとめ記事などでも「歌合で負けて死んだ歌人」として面白おかしく消費されてきました。
しかし、歴史的事実を検証すると異なる真相が見えてきます。天徳四年の公式な歌合記録によると、兼盛の歌と忠見の歌は甲乙つけがたく、判者(審査員)の藤原実頼すら勝敗を決めかねていました。そのとき、御簾の奥から村上天皇が兼盛の「しのぶれど…」を小さく口ずさんだため、天皇の意向を汲んで兼盛の勝ちと判定されたと記録されています。
忠見が没したのは歌合の翌年以降であり、敗戦直後に即死したわけではありません。とはいえ、下級貴族として自らの歌才一本で宮廷を這い上がろうとしていた忠見にとって、晴れ舞台での敗北が致命的な精神的痛手となり、健康を著しく損ねる引き金になったことは当時の貴族たちの日記のニュアンスからも十分に裏付けられます。
在原業平「ちはやぶる」に仕掛けられた二重のレトリック
もう一つの大きな誤解は、在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」が、単なる旅先での秋の写生歌だという認識です。
平安初期の歌物語『伊勢物語』の記述を照合すると、この歌は清和天皇の后となった藤原高子(二条の后)のサロンで詠まれた屏風歌でした。業平と高子は若い頃に身分違いの激しい恋に落ち、一説には業平が高子を背負って駆け落ちまで試みたものの、高子の兄である藤原基経らに連れ戻されたという因縁があります。
水面を真っ赤な絞り染め(くくり)にする竜田川の情景を借りながら、業平は「私の燃えるような情念は、神代の昔にもなかったほど激しくあなたを想い続けている」という消せない未練を、宮廷の人々が居並ぶ公の場で堂々と提示してみせたのです。公の賛辞を裝いながら私的な情炎を潜り込ませるこの高度なレトリックこそが、王朝貴族の歌の真骨頂でした。