1972年9月、羽田空港から特別機で北京へ飛び立った田中角栄首相(当時54歳)の胸中は、極度の緊張に包まれていました。前年1971年7月に突如発表された米国のニクソン訪中予告、いわゆる「ニクソン・ショック」によって、日本の頭越しに米中接近が進展。さらに同年10月の国連総会でアルバニア決議が採択され、中華人民共和国が国連の代表権を獲得、台湾(中華民国)が追放されるという地殻変動が起きていました。自民党内の親台湾派(タカ派)からの凄まじい反発を押し切り、政権発足からわずか2か月で訪中を決断した田中角栄にとって、この交渉はまさに命懸けの政治的賭けでした。
訪中初日の夜、人民大会堂での歓迎宴席で、最初の激震が走ります。田中角栄が挨拶の中で、過去の戦争について「わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と述べた瞬間、会場の空気が凍りつきました。翌日の首脳会談で、中国の周恩来総理は厳しい表情で詰め寄ります。「『ご迷惑』とは何事か。スープを誤って他人の服にこぼしたときに使う程度の言葉で、数千万人の犠牲を出した侵略戦争を片付けるつもりか」。
決裂の危機を救ったのは、外相の大平正芳と中国の姫鵬飛外交部長による徹夜の事務方協議でした。田中角栄もまた、周恩来との差し向かいの対話で「過去に対する責任は痛感している。だからこそ、将来に向かって新しい関係を築くための言葉を選びたい」と率直に訴え、最終的に声明の前文には「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という明確な反省の言辞が刻まれることとなりました。