同時代の記録に一切ない「爆死」が、なぜこれほど確固たる事実のように語り継がれたのでしょうか。そこには江戸時代特有のプロパガンダと大衆娯楽の力学が働いていました。
最大の要因は、江戸時代初期に成立した武道物語や軍記物です。江戸幕府の体制下では、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人を引き立てるため、彼らに敵対した武将を「極悪非道の悪漢(ピカレスク)」として演出する必要がありました。
久秀に背負わされたのが、名高い「三大悪事」です。
- 主君である三好長慶を毒殺し、三好家を乗っ取った
- 室町幕府13代将軍・足利義輝を暗殺した(永禄の変)
- 東大寺大仏殿を焼き討ちにした
しかし近年の古文書調査や一次史料の再検証(天野忠幸氏ら戦国期畿内研究者による成果)によって、これらはほぼ後世の冤罪であることが証明されています。三好家の内部抗争において久秀は主家を支え続けており、将軍暗殺時には現場におらず息子の久通らが関与していました。さらに東大寺の炎上も、三好三人衆軍との市街戦の最中に発生した失火、あるいはキリシタン勢力による放火説が有力視されており、久秀自身が意図して燃やしたわけではありません。
信長に二度裏切りを働き、大仏を焼き、将軍を弑逆したとされる「日本一の大悪党」。そんな男の最期が普通の切腹であっては、講談を聞く江戸の庶民が納得しませんでした。「悪党にはそれにふさわしい、派手で前代未聞の凄惨な天罰が下るべきだ」という勧善懲悪のストーリーラインが求められた結果、「自分の首を爆破して粉微塵にした」という衝撃的な脚色が施され、定着していったのです。