大老が白昼の江戸城門前で討ち取られたという事実は、幕府にとって致命的な恥辱でした。当時の武家法務規定では「当主が討ち死にした家は改易(取り潰し)」という原則があったため、彦根藩は井伊直弼が即死していたにもかかわらず「負傷して療養中」と偽って幕府に届け出を行いました。
幕府側も動揺を隠すためこれを受理し、数日間生存している体裁を保った後に正式な「病死」として発表しました。しかし、江戸市中には瓦版や口伝で瞬く間に真実が拡散し、「幕府の最高権力者すら守れない脆弱な政権」という烙印が押されることになります。
この事件を契機に、幕府の権威は完全に失墜。朝廷の政治的権威が急上昇し、「公武合体(幕府と朝廷の融和)」を模索せざるを得なくなりました。尊皇攘夷派の活動は一気に活発化し、わずか8年後の1868年、明治維新へと結実することになります。