赤線地帯が成立する背景には、近世から連綿と続いてきた遊郭制度の崩壊と、占領軍への対応という生々しい歴史的経緯が存在します。
江戸時代から続く吉原遊郭をはじめ、大正・昭和初期に銘酒屋街として栄えた向島・玉の井などは、戦災によってその多くを焼失しました。終戦直後、日本政府は進駐軍兵士による一般女性への性暴力防止という名目で、内務省の主導により特殊慰安施設協会(RAA)を設立します。しかし、性病の爆発的な蔓延や人権侵害を問題視したGHQは、わずか数カ月でRAA施設の利用を禁止し、公娼廃止指令を突きつけました。
これによって名目上の「遊郭」は壊滅しましたが、空襲で家族や住居を失い、身寄りのない女性たちが生活するために風俗街へ流れ込む構造は止まりませんでした。そこで内閣および警視庁は、風俗営業等取締法の前身となる各種条例や内訓を用い、旧遊郭地域や盛り場の特定区画を特殊飲食店街として限定許可する措置をとりました。吉原はそのまま吉原特飲街へと看板を掛け替え、江東区の洲崎弁天町は「洲崎パラダイス」として生まれ変わり、墨田区では焼け出された玉の井の業者たちが「鳩の街」を新設したのです。
しかし、参議院議員の市川房枝ら女性運動家による長年の廃娼運動と、国際社会からの批判が高まった結果、1956年(昭和31年)5月24日に「売春防止法」が成立。業者の転業準備期間として約2年の猶予が置かれたのち、1958年4月1日をもって赤線地帯は完全廃止となりました。この日を境に、全国の特飲街からネオンが一斉に消え、料飲店や旅館、アパートへと業態変更を余儀なくされました。