近藤勇の生涯と最期の真相|板橋処刑の理由と子孫の現在を徹底検証

近藤勇の生涯と最期の真相|板橋処刑の理由と子孫の現在を徹底検証

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慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。旧幕府軍は近代兵器を備えた新政府軍に敗北を喫し、新選組も江戸へと撤退を余儀なくされます。幕臣・大久保一翁や勝海舟の命を受けた近藤は、名を「大久保剛(のちに大久保大和)」と改め、新選組を再編した「甲陽鎮撫隊」の隊長として甲府城接収へ向かいました。

しかし、甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる新政府軍に大敗。敗残兵を率いて下総国流山(現在の千葉県流山市)に陣を敷いた近藤らは、新政府軍に包囲されます。無用な流血を避けるため、近藤は大久保大和の名で自ら新政府軍の陣営へ出頭しました。しかし、元隊士の証言や捕虜の告発により正体が露見し、板橋宿(東京都板橋区)にあった新政府軍本営へ連行されたのです。

近藤勇の最期が武士としての「切腹」ではなく、罪人としての「板橋処刑場での斬首」となった背景には、当時の政治的対立と怨恨が深く関係しています。

新政府軍の主力であった土佐藩や薩摩藩は、前年に起きた坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件(近江屋事件)の実行犯が新選組であると強く信じ込んでいました(実際は京都見廻組の犯行であったことが明治期に判明)。さらに、鳥羽・伏見に至るまで京都で多くの志士を取り締まってきた新選組への憎悪は凄まじく、土佐藩の谷干城らは近藤の切腹を強硬に拒否。「身分を偽った不届き者」「朝敵の首謀者」として扱い、慶応4年4月25日(1868年5月17日)、板橋処刑場にて斬首、京都の三条河原で首級を晒す獄門という最も重い刑罰を下したのです。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。