チベット高原において、チベットナキウサギは常に保護の対象だったわけではありません。20世紀後半から2000年代初頭にかけて、彼らは「草原を砂漠化させる主犯」として名指しされ、国家規模の苛烈な撲滅政策に晒された暗黒の歴史を持っています。
害獣指定と駆除の経緯を辿ると、1960年代以降の急激な人口増や家畜頭数の爆発に伴い、チベット高原の草地が急速に劣化し「黒土灘(ブラックソイル)」と呼ばれる裸地が広がりました。当時の行政当局は、地面に無数の穴を掘り草を食害するチベットナキウサギを諸悪の根源と断定。殺鼠剤(リン化亜鉛やフルオロ酢酸ナトリウムなど)を用いた毒餌散布キャンペーンを展開し、青海省だけでも数百万ヘクタール規模の草原からナキウサギを絨毯爆撃的に駆除したのです。
しかし、この強引な人為的介入は凄惨な環境破壊という逆効果をもたらしました。毒餌を食べたナキウサギの死骸を口にしたことで、上位捕食者であるチベットスナギツネ、マヌルネコ、オオカミ、猛禽類が二次中毒を引き起こして壊滅的な打撃を受けました。さらに重大だったのは、ナキウサギを全滅させても草原の砂漠化は一向に止まらなかったという事実です。
後の生態学的調査によって、草原荒廃の根本原因は人間の無計画な「過放牧」であり、ナキウサギは草丈が短く見通しの良い荒地を好んで生息していたに過ぎないことが科学的に立証されました。むしろ彼らが掘る深さ数十センチの巣穴は、硬く締まった土壌の通気性と保水力を高め、雨水が地中深く浸透するのを助けていたのです。
放棄された古巣は、高山性のシジュウカラ類やスノウスズメ、高原トカゲなどの貴重な営巣地・避難所として機能していました。絶滅危惧種レッドリストにおいてチベットナキウサギ自体は「低懸念(LC)」に分類されていますが、彼らが消滅したエリアでは生物多様性が劇的に崩壊することが判明。現在では、生態系を支柱として支える「キーストーン種」としての重要性が国際的に再評価され、中国政府の政策も「根絶」から「個体数モニタリングと放牧適正化による共存」へと大転換を遂げています。