2010年代の陸上短距離界は、まさに人類史上最速の男ウサイン・ボルトの独壇場だった。世界中がボルトの桁外れの強さと無邪気な笑顔に酔いしれる中、その絶対王者に立ちはだかる唯一無二の「ヒール(悪役)」の役割を背負わされたのがガトリンだった。どこへ行ってもつきまとうブーイング。しかし、彼はその嫌悪すらも己のエネルギーへと変換してみせた。
歴史的な一幕となったのが2017年のロンドン世界陸上だ。ボルトの引退レースとなった男子100m決勝。ガトリンは9秒92を叩き出し、ボルトらを抑えて見事に金メダルを獲得した。スタジアムを支配したのは称賛ではなく激しいブーイングだったが、ガトリンはトラックに膝をつき、去り行く王者ボルトに対して静かに頭を下げた。スポーツ史に残る、最もドラマチックで切ない名場面である。