成人式で若者が荒れる現象は、社会学的には「通過儀礼(イニシエーション)の機能不全」として説明できます。伝統的な共同体社会において、少年が一人前の大人として認められるためには、過酷な試練や神聖な祭礼を経験する必要がありました。そこでは日常のルールが一時的に停止され、混沌を経験した後に新たな社会的地位を獲得するというサイクルが存在したのです。
しかし、近代の都市化と個人主義の進展により、そうした共同体的な儀礼は形骸化しました。行政が主催する現代の成人式は、冷暖房の効いたホールで市長の退屈な祝辞を聴くだけの、極めて無味乾燥な催しに成り下がってしまったのです。感情の揺さぶりも試練もない「お仕着せの式典」に対し、若者たちが無意識のうちに求めたのが、独自の祝祭性であり、かつての荒れる行為でした。
北九州市がランウェイを設置して成功を収めた事例は、若者のエネルギーを力づくで抑え込むのではなく、「表現の祝祭」として公認・包摂することの有効性を証明しています。大人になるということは、個性を押し殺して従順な歯車になることではありません。自己を表現する自由を謳歌しながらも、他者の尊厳を守り、自らの行動に責任を持つことこそが成熟の証です。
これから式典を迎える若者やそれを見守る家族にとって重要なのは、世間の視線やネットのノイズに過剰に怯えることではなく、自分たちが歩んできた20年の歳月を誇り、周囲への感謝を形にすることです。通過儀礼の主役は、行政でもメディアでもなく、大人への第一歩を踏み出す若者自身に他なりません。