そもそも、なぜ同一の構造を持つ和菓子がこれほどまでに多彩な名称を持つに至ったのでしょうか。その答えは、江戸時代の発祥から昭和の高度経済成長期にかけて起きた「3つの大きな歴史的転換点」にあります。
第1の転換点は、江戸時代中期の安永年間(1770年代)です。江戸・神田の「今川橋」付近にあった茶屋が、小麦粉の生地に小豆餡を入れて焼いた菓子を売り出し、これが庶民の間で爆発的な人気を博しました。この場所の名をとって「今川焼き」と呼ばれるようになったのが、文献に残る最古のルーツです。当時の江戸は独身男性の労働者が多く、手軽に片手で食べられる高カロリーな甘味として急速に定着していきました。
第2の転換点は、昭和30年代(1950年代後半)の高度経済成長期です。愛媛県松山市の菓子メーカー「一六本舗」などの事業者が、従来の今川焼きよりも一回り大きい焼き型を開発し、当時大ヒットしていた映画『大番』や「大判小判」の景気の良さにあやかって「大判焼き」と名付けて販売を開始しました。この大型焼き器は製造設備メーカーを通じて全国の商店街やスーパーの店頭へ爆発的に普及し、地方都市を中心に「大判焼き」という新たなスタンダードが形成されたのです。
第3の転換点は、製法と流通の革新です。関西では、丸い円盤状の型を手動や機械でクルクルと回転させながら手際よく均一に焼き上げる様子から「回転焼き」という機能的な名称が定着しました。さらに、1950年に兵庫県姫路市で創業した「御座候」が、「お買い上げいただき、ありがたく御座候」という感謝の理念を掲げて全国の主要百貨店やターミナル駅へ積極出店。卓越した餡の品質と手頃な価格設定により、関西圏を中心に「ブランド名=お菓子の総称」として消費者の意識に刷り込まれることになりました。