終戦直後の8月18日未明、千島列島最北端に位置する占守島において、占守島の戦い なぜ起きたのかという疑問を紐解くには、当時の冷戦前夜における国際政治の謀略とソビエト連邦指導者ヨシフ・スターリンの野望を直視する必要があります。
1945年2月のヤルタ会談において、ソ連は米英首脳との間で「ドイツ降伏後3カ月以内に対日参戦する見返りとして、南樺太の返還および千島列島の引き渡しを受ける」という密約を結んでいました。ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して8月9日に対日宣戦布告を行いましたが、8月15日に日本がポツダム宣言を受諾したことで、スターリンは極めて強い焦燥感に駆られることになります。米軍が単独で日本本土を占領・進駐する前に、既成事実として自国が欲する領土を軍事占領しなければならないという時間的タイムリミットが生じたためです。
これが、占守島の戦い ソ連軍の侵攻理由の核心でした。ソ連極東軍は、千島列島を北から南へと瞬く間に電撃占領し、そのままオホーツク海を自国の内海化するとともに、最終目標であった「北海道の北半分(留萌から釧路を結ぶ直線以北)」の軍事占領へと突き進む作戦目標を立てていました。赤軍カムチャツカ防衛区司令官グラニコフ少将率いる部隊は、わずか数日の準備期間で艦艇を結集させ、濃霧に紛れて占守島北端の竹田浜への奇襲上陸を仕掛けたのです。
一方の占守島を守備していたのは、日本陸軍第91師団(師団長・堤不樹中将)を中心とする約2万5000人の将兵でした。日本側はすでに大本営からの停戦命令(8月18日16時までに一切の戦闘行動を停止)を受け、重火器を梱包して武装解除に着手していた真っ只中でした。不可侵条約を破って急襲してきたソ連兵に対し、自衛のための武器を再配備して迎撃しなければ全員が無抵抗のまま蹂躙されるという、極限の危機的状況下で戦闘の火蓋が切られたのです。