現場でロシア憲兵に即座に取り押さえられた実行犯は、大韓帝国の義兵闘争指導者であった安重根でした。取り調べと後の関東都督府地方法院(旅順)における裁判において、安重根は自身の行動を私怨による暗殺ではなく「大韓義軍参謀中将」としての交戦行為・義挙であると主張しました。
公判記録に記された安重根の伊藤博文暗殺理由は、いわゆる「伊藤の罪状15箇条」に集約されています。主な告発内容は以下の通りです。
- 1895年の閔妃(乙未事変)暗殺に関与した罪
- 1905年に第二次日韓協約を武力で強要し、大韓帝国の外交権を奪った罪
- 1907年に高宗皇帝を強制退位させ、軍隊を強制解散させた罪
- 教科書を没収・焼却し、韓国民の教育と言論の自由を奪った罪
- 韓国人を欺き、東洋平和を乱した罪
安重根にとって伊藤博文は、自国の主権を段階的に解体していった元凶そのものでした。ロシア領ウラジオストクなどを拠点に武装抗日運動を展開していた安重根は、伊藤がハルビンを訪れる情報を新聞で掴み、国家独立と東洋平和論の実現を掲げて凶行に及びました。