神社の歴史は、江戸史上最大の火災と称される明暦3年(1657年)の「明暦の大火(振袖火事)」まで遡ります。この火災によって神田連雀町(現在の東京都千代田区神田須田町・神田淡路町付近)の町民は甚大な被害を受け、住居を完全に喪失しました。江戸幕府は過密都市の防災計画の一環として、焼け出された連雀町の住民に対し、武蔵野原野への集団移住と開墾を命じます。
見渡す限りの茅原が広がる過酷な新天地へ移り住んだ開拓民たちは、故郷の名を残すべくこの地を三鷹市下連雀と命名しました。そして開村から7年後の寛文4年(1664年)、名主であった松井勘右衛門が中心となり、旧郷である神田連雀町に鎮座していた八幡宮の分霊をこの地に勧請したのが、八幡大神社の直接の起源です。
隣接する名刹・禅林寺は、当初この神社の別当寺(神社を管理・祭祀するための寺院)として松井勘右衛門によって建立されました。明治維新の神仏分離令によって神社と寺院は法的に完全に分割されましたが、現在も並び立つ両社の配置には、江戸初期の開拓共同体が築き上げた精神的支柱の痕跡が色濃く残されています。太宰治や森鴎外の墓所として全国的に知られる禅林寺とともに、この下連雀の杜は三鷹という都市のアイデンティティそのものを象徴する歴史的聖域なのです。