少年の日の体験から手技の体系化を決意した徳治郎の足跡は、日本の手技療法史そのものです。浪越徳治郎の経歴を辿ると、彼が単なる民間療法家に留まらず、指圧を国際的な治療体系へと昇華させた稀代のプロデューサーであった事実が浮かび上がります。
1925年に北海道で指圧研究所を設立した徳治郎は、1940年に東京・小石川の地に現在の日本指圧専門学校の前身となる「日本指圧学院」を創立。解剖学や生理学に基づいた科学的アプローチを導入し、徒手療法としての理論武装を進めました。そして1955年、法律改正によって「あん摩、マッサージ、指圧」として国の正式な医療類似行為として法制化を果たす立役者となったのです。
その名を世界規模へ押し上げた最大の契機が、1954年(昭和29年)2月のマリリン・モンロー指圧事件でした。
メジャーリーグの英雄ジョー・ディマジオとの新婚旅行で来日したマリリン・モンローは、滞在先の帝国ホテルで極度の疲労と急性胃痙攣、激しい下痢に見舞われて倒れ込みました。現地の随行医師による投薬でも容態は好転せず、東京大学医学部関係者を通じて白羽の矢が立ったのが浪越徳治郎でした。
厳重な警備が敷かれた帝国ホテルのスイートルームに入った徳治郎の前に横たわっていたのは、シーツ一枚を纏っただけの、苦痛に顔を歪める世界的セックスシンボルでした。徳治郎は動じることなく、腹部、背部、頸部へと的確な持続圧を施していきます。指圧開始から約1時間後、モンローの腹痛は完全に消失。緊張が解けた彼女は穏やかな寝息を立て始め、翌日には公務へ復帰できるまでに劇的回復を遂げたのです。
「神の手を持つ男(He has magic fingers)」
モンローが発したこの絶賛は瞬く間に海外メディアへ配信され、アメリカをはじめとする世界各国に「SHIATSU」の名が轟くこととなりました。後年、徳治郎は日本テレビ系『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などで「ジェット浪越」の愛称で親しまれ、全身を使ったダイナミックなアクションと底抜けの明るさで茶の間を魅了。治療技術の普及には大衆の認知と親しみやすさが不可欠であるという信念のもと、最晩年までメディアの第一線に立ち続けました。
この情熱と技術は、長男である浪越孝氏や孫の世代へと確実に継承され、日本指圧専門学校を拠点として今なお数多くの国家資格者を世に送り出しています。