種子島で産声を上げた火縄銃の製造技術は、瞬く間に本土へと渡り、巨大な軍需産業へとスケールアップしていきます。その二大拠点となったのが、商業都市として栄えた和泉国の堺(大阪府堺市)と、近江国の国友(滋賀県長浜市)です。
自治都市・堺は、会合衆と呼ばれる豪商たちが海外から硝石を大量に買い付け、熟練の鉄砲鍛冶を組織して圧倒的な生産力を誇りました。一方の内陸拠点・国友は、北近江を支配していた浅井氏や足利将軍家の要請を受け、鍛冶集団が総出で技術開発を推進。部品ごとに職人を分ける「分業体制(マニュファクチュア)」と「部品の規格化」をいち早く導入し、均一な品質の火縄銃を短期間で大量生産する工業システムを構築しました。
この堺と国友によるサプライチェーンの確立により、日本の銃器生産能力は瞬く間に当時のヨーロッパ先進諸国に匹敵、あるいは凌駕する規模へと成長を遂げたのです。