歴史の教科書に記された「配流」という二文字の背後には、現代人の想像を絶する凄惨な実態が横たわっていました。当時の一次史料や現地の伝承を掘り下げると、島流しの遠流がいかに過酷であったかが生々しく浮き彫りになります。
まず流人を待ち受けていたのは、配流地へたどり着くまでの過酷な移送行程です。『延喜式』などの規定によれば、罪人は役人の監視下で炎天下や厳冬期を問わず歩かされ、博多に至った後、玄界灘を渡る粗末な構造船に押し込められました。航行技術が未発達な古代、玄界灘の激浪は船を容易に呑み込みました。遭難や疫病、栄養失調によって、目的地である対馬の土を踏む前に命を落とす者が全体の2割から3割に達したとする学術的試算もあるほどです。
運よく島に漂着したとしても、その後の生活は飢餓との戦いでした。対馬は全島面積の約89%が険しい山林であり、平地が極めて少ないため、稲作を行える耕地はごくわずかしかありませんでした。島民自身が常に粟や稗、海産物に頼る限界的な食生活を送るなか、中央から送られてくる流人に十分な食糧が配給されるはずもありませんでした。
律令の規定上は、流人に対して現地で公給(食糧等の支給)がなされる建前となっていましたが、実際には給付が滞ることが常態化していました。貴族出身の流人は肉体労働の経験がなく、自力で魚を獲ることも木の実を集めることも困難を極めました。寒村の片隅に掘っ立て小屋を結び、冬の厳しい海風に震えながら、都への恩赦を祈り続けて衰弱死していく者が後を絶たなかったのです。