光圀の名を歴史に不滅のものとした最大の事業が、全397巻に及ぶ歴史書『大日本史』の編纂です。明暦3年(1657年)、明暦の大火で江戸が焼け野原となった年に史局(のちの彰考館)を立ち上げて以来、実に約250年後の明治39年(1906年)まで編纂事業が続けられました。
光圀が巨額の藩財政を投じてまで歴史書の編纂に執念を燃やした理由は、単なる趣味や学術的好奇心ではありません。日本の成り立ちや皇室の正統性を明らかにすることで、「国家としてのあるべき道義と正義」を確立するためでした。中国から亡命してきた高名な儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を水戸に招いて師事し、厳密な実証主義に基づいた歴史叙述を徹底させました。
この大日本史編纂の過程で生まれた思想は「水戸学」と呼ばれ、尊皇敬幕(のちに尊皇攘夷)の理論的支柱となります。光圀自身は徳川宗家への忠誠を基本としていましたが、彼の打ち立てた「皇室を尊ぶ」という大義名分は、幕末の志士たちに多大な思想的影響を与え、皮肉にも徳川幕府を終わらせる原動力となりました。
また、藩政における光圀の功績は歴史書編纂だけにとどまりません。飲料水に苦しむ領民のために全長十数キロに及ぶ笠原水道を敷設したほか、領内の寺社改革、悪習とされていた殉死の禁止、蝦夷地(現在の北海道)の探検調査など、先進的かつ実践的な施策を次々と実行しました。