結論から明言すれば、藤本敏夫氏が「赤軍派」や「日本赤軍」に所属していた事実は一切ありません。それどころか、思想的・組織的な系譜において、藤本氏は赤軍派と決定的に対立していた陣営のトップでした。それにもかかわらず、なぜ「藤本敏夫 赤軍」という検索が後を絶たないのでしょうか。
混同の根本的な原因は、彼が所属していた共産主義者同盟(通称:ブント)の内部対立と分裂劇にあります。1960年代末、学生運動が激化の一途をたどるなか、藤本敏夫氏はブント系全学連の委員長として大衆運動を指揮していました。一方、そのブント内部から「前段階武装蜂起」や要人拉致、交番襲撃といった極端な武力闘争を主張して飛び出した最過激派が、塩見孝也氏らをリーダーとする赤軍派(共産主義者同盟赤軍派)だったのです。
当時、藤本氏を中心とするブント主流派は、赤軍派の軍事一辺倒な路線を「大衆から乖離した独善的な冒険主義」と強く批判し、組織から除名・追放する措置をとっています。さらに後年、あさま山荘事件を起こした「連合赤軍」や、重信房子氏らが海外へ拠点を移した「日本赤軍」とも一切の合流を果たしていません。世間一般の記憶のなかで「1970年前後の学生運動=赤軍」という乱暴な記号化が進んだ結果、運動の象徴的リーダーであった藤本氏の経歴に赤軍の影が勝手に投影されてしまったというのが、歴史的事実に基づく真相です。