赤塚不二夫へ捧げたタモリの弔辞全文|白紙の巻紙と「作品」の真意

赤塚不二夫へ捧げたタモリの弔辞全文|白紙の巻紙と「作品」の真意

赤塚不二夫へ捧げたタモリの弔辞全文|白紙の巻紙と「作品」の真意にまつわる役立つ知識を詳しく紐解きます。

弔辞のクライマックスを飾った「私もあなたの数多くの作品の一つです」というフレーズは、どのような文脈から生まれたのでしょうか。この言葉の重みを理解するには、1970年代半ばに遡る二人の奇妙で濃厚な出逢いと居候生活を知る必要があります。

1975年、福岡で保険外交員や喫茶店のマスターなどをしていたタモリさんは、博多を訪れたジャズピアニスト・山下洋輔さんらの目に留まり、上京して新宿のバー「ジャックの豆の木」で密かに独自の密室芸を披露していました。その噂を聞きつけて店にやってきたのが、当時すでに『天才バカボン』や『おそ松くん』で一世を風靡していた大スター・赤塚不二夫さんでした。

タモリさんの芸を一目見た赤塚さんは「こいつは天才だ!絶対に手放してはいけない」と直感します。即座に「お前、東京に残れ」と告げると、信じられない厚遇でタモリさんを囲い込みました。赤塚さんは自らが契約していた目白の一等地にある高級マンションをタモリさんに無償で明け渡し、自らは事務所寝泊まりの生活を始めたのです。

それだけにとどまらず、赤塚さんは高級外車ベンツの鍵をタモリさんに預け、「自由に乗っていい」と指示。さらに、無収入だったタモリさんのために、毎月数十万円相当の生活費(小遣い)を赤塚カンパニーの経費として支給し続けました。常識的な師弟関係やパトロン関係を遥かに超越した、常軌を逸した支援体制でした。

赤塚さんはタモリさんに対し、「芸を教える」ようなことは一切しませんでした。求めたのはただ一つ、「お前の面白いと思うことを、好きなようにやれ」ということだけでした。赤塚不二夫という表現者は、紙の上にインクでキャラクターを描くだけでなく、「タモリ」という特異な才能を持つ人間そのものを世の中に解き放つこと自体を、最高のアート(作品)と捉えていたのです。タモリさんが放った「私もあなたの作品の一つです」という言葉は、へりくだった感謝表現ではなく、赤塚不二夫という稀代のクリエイターに対する、同じ表現者としての究極の敬意と共犯宣言でした。

山崎 陸
著者

山崎 陸

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