慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は伏見城において62年の生涯を閉じました。公家の山科言経の日記『言経卿記』やイエズス会宣教師の記録などから、豊臣秀吉 死因と最期の真相について医学的検証が進められています。
晩年の秀吉は著しい削痩、腹部膨満、失禁、長引く下痢などに悩まされており、現代医学では「胃がん」「大腸がんなどの消化器系悪性腫瘍」、あるいは「慢性腎不全による尿毒症」が有力視されています。死の直前、自らの死期を悟った秀吉の最大の関心事は、わずか5歳の嫡男・秀頼の行く末でした。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」という辞世の句を遺し、諸大名に秀頼への忠誠を誓う起請文を何通も書かせた姿には、かつての冷徹な覇者の面影はありませんでした。
秀吉の死後、焦点となったのが豊臣秀頼と徳川家康の関係です。秀吉は生前、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の「五大老」と、石田三成ら「五奉行」による合議制を敷き、権力の集中を防ぐ安全装置を設計しました。しかし、前田利家の病死によって抑止力が崩壊すると、筆頭大老である徳川家康が急速に台頭します。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て実権を掌握した家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任。豊臣家を「天下の主」から「摂津・河内・和泉65万石の一大名」へと実質的に格下げしました。そして慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂の陣によって秀頼と淀殿を自害に追い込み、豊臣宗家を完全に滅亡させたのです。
血脈という観点から豊臣秀吉 家系図と現在の子孫を検証すると、大坂城落城時に秀頼の長男・国松が捕らえられて京都の六条河原で処刑され、秀吉の男系直系子孫は断絶しました。一方、秀頼の娘であった奈阿姫は助命されて鎌倉の東慶寺に入り、天秀尼となって生涯を寺で過ごし、1645年に死去したことで秀吉の直系血筋は完全に途絶えたとされています。ただし、秀吉の正室・ねね(高台院)の兄である木下家定の家系は、備中足守藩主(木下家)や豊後日出藩主(木下家)として明治維新まで存続し、その血脈は現代まで脈々と受け継がれています。