厄年に対して懐疑的な視線が向けられる最大の理由は、「神社や寺院の金儲けではないか」という商業主義への疑念です。正月が明けると、全国の神社仏閣の境内には厄年早見表の看板がずらりと並び、5,000円から1万円を超える祈祷料(初穂料)の納付を促されます。この光景を見て、「宗教法人の収益モデルとして作られたイベントではないか」と冷笑する声が上がるのも無理はありません。
しかし、歴史を紐解くと、この風習が単なる現代の商業主義だけで生まれたわけではないことが分かります。厄年の原型は平安時代の貴族社会にまで遡ります。『源氏物語』や当時の貴族の日記には、特定の年齢において慎み深く行動し、穢れを避ける「物忌み(ものいみ)」を行っていた記録が残されています。当時は古代中国から伝わった陰陽五行思想に基づき、暦の運行と個人のバイオリズムの不調和を警戒する考え方が主流でした。
では、なぜそれが庶民にまで広く定着したのでしょうか。大きな転換点は江戸時代に訪れます。平和な時代が続き、寺社参詣が庶民の娯楽や観光と結びついたことで、寺社側が参拝客を呼び込むプロモーションとして厄年を大々的に宣伝し始めました。さらに、男性の42歳を「死に」、女性の33歳を「散々」と読ませる語呂合わせが定着したのもこの時代です。
本来、日本古来の共同体において厄年は「役年」であり、村祭りの差配や神事を執り行う重要な「役目」を担う年齢を意味していました。共同体の責任ある立場に就くための通過儀礼だったものが、江戸期の商業化と語呂合わせの恐怖訴求によって、「災いが降りかかる不吉な年」へと意味合いが歪められていったのが実態です。この経緯を見る限り、「災難が降りかかる」というオカルト的な言説自体は、後世に作られた迷信と評価せざるを得ません。