8世紀後半、奈良の平城京から平安京へと遷都が進む動乱の時代、朝廷は巨額の国家予算と数万規模の兵力を動員し、東北地方への軍事侵略を繰り返しました。これが教科書に登場する「蝦夷征伐(蝦夷戦争)」です。なぜ、中央政権はこれほどまでに東北の蝦夷を服属させることに執着したのでしょうか。
その背景には、極めて実利的な経済的・軍事的動機が存在していました。
第一の理由は、「黄金」と「名馬」の獲得です。天平21(749)年、陸奥国小田郡(現在の宮城県涌谷町)で日本初の砂金が産出され、奈良の大仏造立に使われたことは有名ですが、北東北の北上川流域はさらに莫大な砂金を産出する宝の山でした。加えて、東北の冷涼な大地で育まれた頑強な軍馬は、騎射戦術を主力とする当時の貴族軍事力にとって喉から手が出るほど欲しい戦略物資でした。
第二の理由は、律令国家としての「天下・中華思想」の具現化です。天皇を中心とする律令体制は、周辺の「未開の民(夷狄)」を教化・服属させることで権威の正当性を証明しようとしました。支配下に組み込んだ蝦夷を「俘囚(ふしゅう)」として全国各地に移住させ、税を納める公民に仕立て上げることが国家の至上命題だったのです。
しかし、地の利を生かしたエミシ側のゲリラ戦法は朝廷軍を翻弄しました。その象徴が、胆沢(現在の岩手県奥州市)の軍事指導者「阿弖流為(アテルイ)」と「母礼(モレ)」です。延暦8(789)年の「巣伏(すぶし)の戦い」では、北上川の地形を巧みに利用したアテルイ軍が紀古佐美率いる朝廷軍5万を誘い込み、大勝を収めています。
この泥沼の戦況を打開するために投入されたのが、初代征夷大将軍のひとりに数えられる名将、坂上田村麻呂でした。田村麻呂は単なる武力行使にとどまらず、胆沢城(802年)や志波城(803年)を築城して前線を押し上げるとともに、投降したエミシを温厚に遇する硬軟併用策をとりました。延暦21(802)年、アテルイとモレは田村麻呂の軍門に降り、平安京へと連行されます。田村麻呂は彼らの武勇と統率力を惜しみ、東北統治のために助命嘆願を行いましたが、公卿たちの強い反対により、両雄は河内国杜山(現在の大阪府枚方市付近)で処刑されました。この激闘を境に、東北南部から中部は急速に国家体制へと組み込まれていくことになります。