この石段が「出世の石段」と呼ばれるようになった背景には、江戸時代初期に起きた命懸けの武勇伝が存在します。愛宕神社そのものは1603年(慶長8年)、江戸に幕府を開いた徳川家康の命によって創建されました。火難を防ぐ「防火の神」である火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神として祀り、江戸市中を見渡す要衝の山として軍事・防災上の拠点でもありました。
事件が起きたのは、三代将軍・徳川家光の治世である1634年(寛永11年)のことです。家光が寛永寺参詣の帰り道、愛宕山の上に咲き誇る見事な梅の枝を目に留め、「誰か馬であの梅を取って参れ」と供の武士たちに命じました。しかし、目の前にあるのは歩いて登るだけでも危険な急斜面です。馬で登れば落馬して命を落とすことは明白であり、居並ぶ名だたる武芸者たちが恐れをなして下を向く中、一人の武士が進み出ました。
それが、讃岐丸亀藩の藩士であった曲垣平九郎です。平九郎は見事に馬を操り、急峻な石段を駆け登って山頂の梅の枝を手折ると、再び馬に乗ったまま石段を無傷で駆け下りて家光に梅を献上しました。家光はその卓越した馬術と恐れを知らぬ勇気を絶賛。「日本一の馬術の名人」と讃え、平九郎には短刀などの褒美が下賜され、彼の名は一夜にして全国に轟くこととなりました。無名の地方藩士が、誰もが尻込みする難局に自ら飛び込み、見事に結果を出して栄達を掴んだ――この史実が講談などを通じて民衆に広まり、愛宕神社の男坂は「出世の石段」として語り継がれるようになったのです。