明治の元勲の中で、山県有朋ほど国民から嫌悪された人物はいません。当時の新聞や世論調査に類する報道記録を見ても、山県へのバッシングはすさまじいものがありました。なぜ彼はそこまで嫌われたのでしょうか。理由は主に3つに集約されます。
第1に、民衆運動や言論に対する冷徹な弾圧です。山県は1900年、労働運動や社会主義運動を封じ込めるために「治安警察法」を制定しました。この法律は女性の政治集会への参加を禁じ、労働者の団結権やストライキを厳しく規制するもので、民主主義や人権を求める人々にとって山県は「自由の敵」そのものでした。
第2に、陸軍・内務省・貴族院・枢密院の主要ポストを自らの派閥(山県閥)で固め、表舞台に出ずに裏から政権を操る「黒幕政治」を展開したことです。表の内閣が倒れても、裏の山県が首班を指名して権力を維持し続ける構図は、大正デモクラシーの気運が高まる中で「元老独裁の元凶」として民衆の激しい怒りを買いました。
そして第3に、晩年に引き起こした宮中某重大事件での権力濫用です。皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子女王の家系に色盲の遺伝があるとして、山県は婚約辞退を強要しました。しかし、久邇宮家や右翼勢力の猛反発、そして元老・西園寺公望らの不信を買い、最終的に婚約は維持され山県は完敗。皇室の私事にまで権力を及ぼそうとした老害政治家として、その権威は完全に失墜しました。
この国民的嫌悪が最も残酷な形で可視化されたのが、1922年(大正11年)2月の国葬です。1909年にハルビンで凶弾に倒れた伊藤博文の国葬には数十万の民衆が押し寄せ、日比谷公園周辺が涙と熱気に包まれたのとは対照的に、山県の日比谷公園での国葬は信じがたいほど寒々しいものでした。
当時のジャーナリズムは「参列したのは制服を着た役人と軍人ばかりで、一般の民衆は誰ひとり頭を下げず、ただ遠巻きに眺めているだけだった」「民衆の心なき国葬」と書き立てました。生涯を国家のために捧げ、権力を極め尽くした巨頭の最期は、国民から完全に拒絶された哀愁に満ちたものでした。