波野瓔子氏の人物像を語る上で欠かせないのが、彼女が遺した貴重な手記や著書『吉右衛門の女房』をはじめとする回想録です。そこには、客席からは決して見ることのできない「梨園の妻・母」としての極限の緊張感と、人間味あふれる舞台裏のリアルが生々しく記されています。
関係者の証言や当時の取材記録によると、初代白鸚の体調管理から贔屓筋への挨拶回り、一門の弟子たちの衣食住の差配に至るまで、瓔子氏が担った業務はまさに一流企業の総務・広報・人事責任者を一人で兼ねるような激務でした。年間を通じて休日のない興行スケジュールの中、劇場ロビーで見せる完璧な笑顔の裏には、睡眠時間を削って帳簿を合わせ、贔屓客への礼状を自筆で認める過酷な日常が存在していました。
実母である波野千代氏から受け継いだ「吉右衛門の女房としての心得」を徹底的に実践した瓔子氏。彼女が遺した手記には、「役者の女房は影で支えるのが本分でありながら、決して芸に妥協を許してはならない」という凄みのある覚悟が滲み出ています。