なぜ新横浜の街づくりは、これほど長い歳月を要して最終局面に至ったのでしょうか。その経緯を振り返ると、日本の高度経済成長から現代に至る都市開発の縮図が浮かび上がってきます。
1964年、東海道新幹線の開業と同時に設置された新横浜駅周辺は、見渡す限りの田園地帯でした。当時の横浜市中心部(関内・桜木町)から離れていたこともあり、当初は新幹線の停車本数も限られた郊外拠点に過ぎませんでした。転機となったのは、1989年の横浜アリーナ開業、そして1990年代以降の日産スタジアム(横浜国際総合競技場)の建設や新幹線「のぞみ」全列車停車の実現です。
これにより、新横浜は「イベントとビジネスの街」としての地位を確立しました。しかし、駅北口が整然としたオフィス街を形成する一方で、南側の篠原口は狭隘な道路と丘陵地が残されたまま分断されるという「南北格差」が長年の構造的課題として立ちはだかりました。相鉄・東急直通線の開通という巨大な起爆剤を経て、この未解決のピースを埋める作業が2020年代半ばの現在進行形で進められており、これが一連の開発を「最終章」と位置づける構造的な理由となっています。