大宝律令が701年に急ピッチで制定された背景には、国内の権力闘争だけでなく、東アジアにおける強烈な外交危機がありました。当時の日本が直面していた構造的要因は主に3点あります。
第一に、「対外的な主権確立と国家主権の誇示」です。663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫した古代日本は、強大な帝国・唐による侵略の危機に怯え続けました。唐と対等な外交関係を結び、独立国として承認させるためには、唐と同じレベルの高度な法制度(律令体系)と官僚組織を備えていることを対外的に証明する必要がありました。大宝律令制定の翌年(702年)には、第7次遣唐使として粟田真人らが派遣され、唐側に対して「日本」という国号と「天皇」の称号を公式に認めさせることに成功しています。
第二に、「地方豪族の官僚化と国内統治の強化」です。それまでの日本は、各地の有力豪族(氏族)が私有民や私有地を支配する連合政権的な性格を色濃く残していました。これを打破し、すべての土地と人民を天皇が直接統制する「公地公民」の建前を徹底させるための法規が不可欠でした。
第三に、「国家財政の基盤構築」です。戸籍を作成して民衆に田を割り当てる班田収授法を実施し、そこから租庸調(穀物・労働・特産品)や兵役を体系的に徴収する仕組みを作り上げることが、巨大な国家運営を維持する唯一の手段でした。