大河ドラマなどの影響で、かつて今川義元はお歯黒を塗り、輿に揺られて戦場に出る軟弱な貴族趣味の武将として描かれがちでした。しかし、この描写は信長の偉大さを引き立てるための後世の偏見に過ぎません。
義元は「今川仮名目録追加」を制定して領国統轄を強化し、甲相駿三国同盟を結んで背後の安全を確保した「海道一の弓取り」と称される戦国屈指の英主でした。尾張侵攻作戦も極めて緻密であり、前線砦の攻略までは完璧な作戦遂行を見せていました。
では、なぜ義元は命を落とすことになったのか。決定的な敗因は以下の3点に集約されます。
- 前線連勝による警戒心の緩み:丸根砦や鷲津砦を瞬く間に落としたことで、織田方の抵抗力を過小評価し、本陣での休息を許してしまったこと。
- 急峻な地形と悪天候による情報網の途絶:突然の暴風雨によって周囲の索敵が麻痺し、信長本隊の接近を察知できなかったこと。
- 兵力分散による本陣防衛力の脆弱化:部隊を各所に展開させた結果、本陣が独立した孤立地帯と化していたこと。
義元自身も無抵抗に討たれたわけではなく、信長の家臣・服部春安の膝を斬りつけ、毛利良勝に組み伏せられながらも指を噛みちぎるなど、最後の瞬間まで武将として猛烈に奮戦したことが記録に残っています。