城塞であったクレムリンが、いかにしてロシア国家の権力中枢を意味するようになったのか。その背景には、血塗られた権力闘争と首都移転の歴史があります。 12世紀半ば、ユーリー・ドルゴルーキー公によってモスクワ川とネグリナヤ川の合流点に木造の砦が築かれたのがクレムリンの起源です。14世紀後半、ドミトリー・ドンスコイの時代に白い石灰岩で城壁が改築され「白亜のモスクワ」と呼ばれました。その後、15世紀末にイヴァン3世(大帝)がイタリアから高名な建築家たちを招聘し、現在の姿に通じる強固な赤レンガの城壁と20基の塔、壮麗な大聖堂群を完成させました。 しかし、18世紀初頭にピョートル大帝がサンクトペテルブルクへと遷都したことで、クレムリンは一時的に国家政治の中心から外れ、皇帝の戴冠式が行われる象徴的・宗教的な古都の遺構へと退きます。 歴史の歯車が再び大きく旋回したのが、1917年のロシア革命でした。政権を奪取したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキ政府は、第一次世界大戦の干渉軍や反革命勢力による海側からの攻撃を警戒し、1918年3月に首都をペトログラード(サンクトペテルブルク)から内陸のモスクワへと電撃的に戻しました。 この時、ソビエト政権が最高指導部と官僚機構を配置した場所こそが、城壁で外敵を遮断できるモスクワ・クレムリンでした。元老院宮殿にはレーニンの執務室と住居が置かれ、後に権力を掌握したヨシフ・スターリンもクレムリン内に居住し、恐怖政治と大粛清の指令を城壁の内側から下し続けました。 ソ連崩壊後の1991年以降、新生ロシア連邦においてもエリツィン、そしてプーチンへと大統領権力が継承される中で、クレムリンはそのまま「ロシア大統領府(Администрация Президента Российской Федерации)」の公式な本拠地として引き継がれました。要塞という防御空間が、そのまま市民から隔離された「絶対権力の牙城」へと直結した歴史的経緯こそが、クレムリンという言葉に冷徹な威圧感をまとわせている最大の要因です。
クレムリンの意味とは?大統領府の代名詞となった歴史と現在
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