徳川家斉はなぜ子供53人?50年君臨した大御所と財政破綻の真相

徳川家斉はなぜ子供53人?50年君臨した大御所と財政破綻の真相

徳川家斉はなぜ子供53人?50年君臨した大御所と財政破綻の真相についての疑問解決ガイドをご紹介します。

現代の歴史解説やネットの議論では、「徳川家斉=大奥で放蕩に耽った無能な好色将軍」という極端なレッテルが貼られがちです。しかし、半世紀に及ぶ長期政権を客観的な史料から検証すると、単純な暗君論では片付けられない多面的な功績とリーダーシップの側面も見えてきます。

第一に、「化政文化」の爛熟を促した文化的な包摂力です。定信時代の息の詰まる思想統制を緩めたことで、葛飾北斎や歌川広重の浮世絵、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』といった町人文学・美術が一気に花開きました。また、伊能忠敬による日本全国の沿海実測地図の作成事業を支援・保護し、日本の測量技術を世界水準に引き上げたのも家斉の治世下です。

第二に、海防意識の萌芽と対外政策の舵取りです。ロシア使節レザノフの来航やフェートン号事件、モリソン号事件など、家斉の時代は欧米列強の影が日本近海に差し迫った時期でした。幕府は1825年に「異国船打払令」を出すなど強硬姿勢を取りましたが、同時に沿岸警備の強化や蝦夷地の天領化を進めるなど、国防上の危機管理に一定の着手を行っていました。

気さくで温和な人柄であったとも伝えられており、家臣の失敗に対しても寛容で、激昂して理不尽な処罰を下すような暴君ではありませんでした。しかし、その「優しさ」と「執着のなさ」が、側近や大奥の暴走を許す最大の温床となったことは否めません。

中島 亮太
著者

中島 亮太

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。