ネット上のQ&Aサイトや日常会話では、「春眠暁を覚えずだから、春に朝寝坊をするのは人間として自然なこと」と正当化の口実にされる場面が目立ちます。しかし、ここには歴史的・文化的な誤解が潜んでいます。
日本文学における受容の歴史を遡ると、作家・直木三十五が1927年に著した歴史小説『巖流島』の中に、極めて興味深い記述が見られます。
「四月十三日、眠りの楽しい時である。春眠暁を覚えず、所々に啼鳥を聞く――朝寝をするに一番いい時。七時すぎ八時近くなっても武蔵は起き出てこない」
決闘当日の朝、宮本武蔵が遅刻して悠然と眠っている場面を描写するために、この詩句が引用されています。昭和初期の文学界においても、すでに『春暁』は「朝寝坊の言い訳」や「豪胆なマイペースさの象徴」として都合よく消費されていた証拠といえます。
しかし前述の通り、孟浩然自身の文脈では「起きられなくて困った」という滑稽話ではなく、「自然の移ろいに対する切実な目覚め」として描かれています。詩の中の語り手は、すでに起きて鳥の声を聞き、昨夜の風雨に思いを馳せているのです。完全に熟睡して時間を浪費したのではなく、「目覚めて布団の中で静かに耳を澄まし、季節の喪失に心を痛めている」状態である点こそ、見落とされがちな最大の盲点です。