猿手(英語名:Ape hand deformity)とは、腕から手先へと伸びる三大末梢神経のひとつである「正中神経(せいちゅうしんけい)」が麻痺することによって引き起こされる手の変形障害である。最大の特徴は、手のひらの親指の付け根にあるふくらみ「母指球筋(ぼしきゅうきん)」が著しく萎縮し、肉が削げ落ちたようにペタンコになってしまう点にある。
なぜこの病態が「猿」と呼ばれるのか。その理由は解剖学的な手の構造にある。人間の手は、親指が他の4本の指と向かい合って立体的に動く「対立運動(opposition)」ができる構造を持っている。これにより、小さな物をつまむ、道具を握る、ビンの蓋をひねるといった高度な手指動作が可能になる。対して、サルの手は親指が人差し指と同じ平面上に並んでおり、人間のような対立運動ができない。
正中神経が深刻なダメージを受けると、母指球を構成する筋肉群(短母指外転筋、短母指屈筋浅頭、母指対立筋)が完全に麻痺する。その結果、親指が外側に開いたまま人差し指の真横に倒れ込み、まるでサルの手のように平面的で薄っぺらい形態になってしまうことから、この名が付けられた。
猿手に伴う主な症状の特徴は、運動障害と感覚障害の2つの側面から現れる。
運動面では、親指の腹を他の指の腹と合わせる「OKサイン」が作れなくなる。日常動作においては、シャツのボタンを留める、財布から硬貨をつまみ出す、鍵を回す、箸を正確に操るといった繊細な動作が著しく困難になる。一方の感覚面では、正中神経が支配している親指・人差し指・中指、および薬指の親指側半分の手のひら側にしびれや感覚の麻痺が生じる。手の甲側や小指側には感覚異常が現れないのも、正中神経麻痺特有のシグナルである。
猿手を発症する根本原因として、最も臨床件数が多いのが「手根管症候群(しゅこんかんしょうこうぐん)」の重症化である。手首の手のひら側には、骨と靭帯に囲まれた「手根管」という細いトンネルが存在し、その中を9本の屈筋腱と正中神経が通過している。使いすぎや加齢、女性ホルモンの乱れ、慢性的な腱鞘炎などによってこのトンネルの内圧が高まると、正中神経が長期間にわたって締め付けられ、やがて神経麻痺から母指球筋の萎縮へと進展してしまう。そのほか、手首の骨折(橈骨遠位端骨折など)による直接的な圧迫や外傷による神経断裂、長時間のデスクワークや反復作業による慢性絞扼も引き金となる。