長年、学校教育では「子規が法隆寺の茶店で柿を食べているときに鐘の音を聞いた」と解説されてきました。実際、子規自身が随筆『くだもの』において、「法隆寺の茶店に憩ひて柿を食ひ居れば西円堂の鐘粛然として鳴る」と書き残しているため、これが通説となった経緯があります。
しかし、当時の詳細な足取りや滞在記録を照合する近代文学研究からは、極めて有力な「創作・舞台差し替え説」が提示されています。子規が明治28年(1895年)10月に奈良を訪れた際、逗留していたのは奈良市街(現在の高畑町界隈)にあった旅館「対天堂(たいぜんどう)」でした。この宿での実体験を記した子規の別の記録や関係者の証言によると、宿の下女が剥いてくれた御所柿を美味しく頬張っていたまさにその瞬間、近隣にある東大寺の鐘が鳴り響いたと記されているのです。
では、なぜ子規は東大寺ではなく法隆寺を選んだのでしょうか。そこには近代俳句の創始者としての冷徹な美意識と計算がありました。「柿食へば鐘が鳴るなり東大寺」と詠んでしまうと、「とうだいじ」という重い音の響きや大仏の巨大なイメージが前面に出てしまい、秋の寂寥感や枯淡の風情が損なわれてしまいます。一方、「ほうりゅうじ」という軽快で清澄な音韻と、飛鳥・斑鳩の地が持つ静寂と歴史の奥行きを重ね合わせることで、句の芸術的完成度は劇的に跳ね上がります。現実の体験素材(柿と鐘)を、より詩的純度の高い斑鳩の風景へと再構築したことこそが、子規の類まれな写生の本質だったといえます。