事件の本質を理解する鍵は、極東の島国日本ではなく、当時のヨーロッパを覆っていたナポレオン戦争の構図にあります。1806年、フランス皇帝ナポレオンは「大陸封鎖令」を敷き、オランダを事実上の属国としました。これに対抗するイギリスは、世界各地に散らばるオランダの植民地や商船の拿捕・接収を進めていました。
当時、世界で唯一オランダ船の寄港が許されていたのが日本の長崎・出島でした。イギリス海軍のフリゲート艦フェートン号の艦長フリートウッド・ペリューは、出島に入港するオランダ商船を拿捕・撃破する目的で、オランダ国旗を偽装掲揚して長崎港へと堂々と侵入したのです。
1808年(文化5年)8月15日、偽のオランダ船を迎え入れるため長崎奉行所の役人と共に出迎えたオランダ商館の館員2名(ゴズマン、スヒュール)が、小舟ごと拿捕されて人質となりました。イギリス側は商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフに対し、人質の解放と引き換えに水、薪、牛、豚などの補給を要求し、応じない場合は長崎港内の船舶を焼き払い長崎市中を砲撃すると威嚇したのです。