歴史ファンが最も関心を寄せるテーマの一つが、徳川家治が田沼意次を重用した理由です。側用人から老中へと異例の出世を遂げた田沼による政治は、一般に「田沼時代」と呼ばれますが、これは家治の無関心が生んだ傀儡体制ではありませんでした。
享保の改革によって一時的に持ち直した幕府財政も、米価の変動や天災によって再び行き詰まりを見せていました。家治は、従来の「倹約と増税(農民からの年貢搾取)」という農業本位の緊縮財政に限界を感じていたのです。そこで、商業資本を活用して利益を生み出す現実主義的な手腕を持っていた田沼意次に目をつけました。
当時の記録『徳川実紀』や諸大名の日記によれば、家治は田沼の進言をただ鵜呑みにするのではなく、重要施策の最終決定権を常に握っていました。田沼時代の政策である株仲間の公認や専売制の導入、銅座・鉄座の設置による貿易振興などは、家治という最高権力者の揺るぎない支持と庇護があったからこそ推進できた構造改革でした。