ハル・ノートを受け取った東条英機首相および東郷茂徳外相ら指導部は、言葉を失うほどの衝撃を受けました。当時、日本側は交渉妥協案として「甲案」「乙案」を提示しており、特に乙案では「南部仏印からの撤兵」「石油供給の再開」を条件とした現実的な休戦・現状維持を模索していました。
しかし、手渡された文書は日本の譲歩案をすべて一蹴し、満洲事変以降の10年間にわたる対外政策を全否定する内容でした。東郷外相は当時の手記『時代の一面』で、次のように生々しい述懐を残しています。
「私は眼暗むる心地がした。これが米国の最終提案であるとするならば、日本は自ら屈服して亡国への道を歩むか、あるいは自存自衛のために立ち上がるかの二者択一を迫られたのである」
当時の大本営・政府首脳の間では、「米国の要求を呑めば、国内で陸軍の反乱やクーデターが起き国家が内部分裂する。戦わずに屈服すれば二等国へ転落するが、戦って敗れるなら悔いはない」という強烈な危機意識が支配的となりました。1941年12月1日の御前会議において、日本政府は正式に対米英開戦を最終決定したのです。