人道の港敦賀ムゼウムが国内外の旅行者や研究者を惹きつけてやまない最大の理由は、過酷な歴史の荒波の中で敦賀港が果たした「奇跡のシェルター」としての役割にあります。明治から昭和初期にかけて、敦賀港はウラジオストク航路とシベリア鉄道を経由してヨーロッパへと直結する日本海側随一の国際連絡拠点でした。この地理的条件が、世界史に残る二度の救済劇の舞台となる必然を生み出しました。
一度目の救済劇は1920年代(大正9年〜11年)のポーランド孤児救済です。ロシア革命の混乱下、シベリアに取り残されて極度の飢餓と寒さに苦しんでいたポーランド人の孤児たちを救うため、日本赤十字社が中心となって救済活動を展開。敦賀港には計5回、総勢765人の子どもたちが上陸しました。敦賀の町医者や市民は、下船した子どもたちにリンゴやお菓子を配り、自らの銭湯を無償で開放して手厚く看病したという記録が残されています。
二度目は1940年代(昭和15年〜16年)、第二次世界大戦下のユダヤ難民受け入れです。リトアニア・カウナスの日本領事館に駐在していた外交官・杉原千畝が、本省の意向に苦悩しながらも発給し続けた「命のビザ(通過査証)」。これを手にした数千人もの難民が、シベリア鉄道を横断し、ウラジオストクから天草丸などの船に乗って敦賀港に降り立ちました。飢えと恐怖で疲弊しきった難民たちに対し、敦賀市民はリンゴを差し入れ、時計を売って当座の資金を作ろうとする難民に不当な買い叩きをせず適正価格で両替に応じるなど、人間味あふれる支援を惜しみませんでした。