洋画の吹き替えにおいて、特定の地域の方言が主役に採用されるケースは極めて異例です。ではなぜ、笑福亭鶴瓶のグルーは標準語ではなく関西弁でなければならなかったのか。その背景には、ハリウッド制作陣の明確な意図と、日本語ローカライズにおける緻密な計算が存在します。
最大の理由は、原語(英語版)でグルーを演じる米俳優スティーヴ・カレルの演技アプローチにあります。英語版のグルーは、ロシア系や東欧系を思わせる独特の奇妙なアクセント(訛り)で喋っています。怪盗としての怪しさ、どこか出自の知れない異邦人感、そして標準的な英語から外れたコミカルな響きを出すことで、キャラクターの個性を際立たせていたのです。
配給の東宝東和および日本語版制作スタッフがこのキャラクターを日本に持ち込む際、直面したのが「この異国風の訛りをどう日本語に置き換えるか」という課題でした。直訳的なカタカナ英語のカタコト喋りにしてしまえば、単なる外国人の戯画化になり、悪党でありながらどこか憎めないグルーの人間的魅力が損なわれてしまいます。そこで導き出された結論が、「標準語圏の観客にとって独自のテンポと異物感を持ち、かつ温かみと愛嬌を内包する言語=関西弁」という選択肢でした。
米イルミネーション・エンターテインメントのCEOであり映画プロデューサーのクリス・メレダンドリも、この方針を快諾。グルーという人物は、世界一の悪党を目指しながらも孤児の三姉妹に情を奪われていく、本質的には愛情深い男です。制作陣が求めたのは、洗練されたプロ声優の美声ではなく、「ダミ声の中に滲み出る人の良さ」でした。テレビやラジオで見せる鶴瓶の屈託のない笑顔、時折見せる哀愁、そして日本中から愛されるキャラクター性が、グルーの内面と奇跡的な合致を見せたのです。
当時の特番や公式インタビューにおいて鶴瓶自身は、「最初にオファーを聞いたときは『なんで俺がハリウッド映画の主役やねん、しかも関西弁でええってどういうことや』とドッキリを疑った」と述懐しています。初めは標準語風に寄せようとテストしたものの、演出スタッフから「鶴瓶さんそのままでやってほしい」と要望され、あの唯一無二のスタイルが誕生しました。