ボーモルのコスト病が理論上の問題にとどまらず、社会的な危機として先鋭化しているのが日本の介護福祉現場です。超高齢社会を迎えた日本において、介護は最大の需要拡大産業であるにもかかわらず、深刻な人材難と経営難に喘いでいます。
大手介護付き有料老人ホームで15年以上のキャリアを持つ施設長は、現場の取材に対して次のように赤裸々な苦悩を語っています。
「見守りセンサーや移乗サポートリフト、介護記録のタブレット入力など、導入できるデジタルツールはすべて試しました。事務作業は多少減りましたが、排泄介助、食事の支援、認知症の方の不安な声に耳を傾ける時間だけは、絶対に1分も削れません。むしろそこを削れば、利用者さんの尊厳を傷つけ、転倒などの重大事故につながります。機械化すればするほど、『人の手でしかできない時間』の重みが浮き彫りになるのです」
経済学が指摘する通り、本来であれば介護現場も他産業に負けない賃上げを行わなければなりません。しかし、日本の医療や介護は市場価格ではなく、国が定める「公定価格(診療報酬・介護報酬)」によって収入の上限が厳格にコントロールされています。国の財政難を背景に報酬単価の引き上げが抑制され続けた結果、介護現場では「コスト病による価格転嫁が制度的に封殺され、その歪みが現場スタッフの低賃金と過密労働に押し付けられる」という極めて過酷な事態が発生しています。
大手製造業が大幅な賃上げに沸く一方で、介護従事者の離職が止まらない構造的背景には、この公定価格とボーモル効果の激しい衝突が存在しています。価格を上げれば現役世代の社会保険料負担が限界を突破し、価格を据え置けば担い手がいなくなって社会インフラが崩壊するという、逃げ場のない隘路に直面しています。