文壇の巨頭・江藤淳の自死の真相と遺書全文|戦後日本に放った警鐘

文壇の巨頭・江藤淳の自死の真相と遺書全文|戦後日本に放った警鐘

文壇の巨頭・江藤淳の自死の真相と遺書全文|戦後日本に放った警鐘の全体像を丁寧に掘り下げてご紹介します。

1999年7月21日の深夜、神奈川県鎌倉市西鎌倉の自宅浴室で、江藤淳は手首を切って倒れているところを発見されました。検視による直接の死因は失血死。争った形跡はなく、整然と片付けられた書斎には、関係者や友人へ宛てた遺書が遺されていました。

当時、報道各社が速報で伝えた遺書の全文は、妥協を許さぬ批評家として生きた男の冷徹な自己凝視に満ちていました。

【江藤淳の遺書 全文】

「平成十一年七月二十一日 私はその形骸を処置することを決意した。理由は、病軀僥倖(びょうくぎょうこう)として生きるを恥とす、の一語に尽きる。これ以上、周囲に迷惑をかけることは、私にとって耐え難い恥辱である。かつて妻を失い、さらに健康を失った今、自ら命を絶つほかない。諸君の友情に感謝する。 江頭淳夫」

遺書の中で本名である江頭淳夫(えがしら あつお)と署名した点に、公人としての批評家・江藤淳と、ひとりの生身の人間としての決着をつけた覚悟が滲み出ています。自らの肉体を「形骸」と呼び、病を得てなお生き長らえることを「恥」と断じる潔癖な精神構造は、まさに彼が文芸批評の現場で貫き通した峻厳な倫理観そのものでした。

自死の背景には、同年5月に発症した脳梗塞の後遺症が存在しました。右半身の軽度の麻痺に加え、言葉が瞬時に思い出せない失語の兆候、そして何よりも「ペンを握って自らの思考を正確な日本語として紙に定着させることができない」という絶望が、彼から生きる根拠を奪い去ったと関係者は証言しています。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。