飯田市が「焼肉の街」と呼ばれる背景には、明確な客観的根拠が存在します。総務省統計局の経済センサスや地元自治体・産業団体の調査によると、飯田市の人口1万人あたりの焼肉店舗数は約5.3軒を記録しており、全国市町村別ランキングにおいて長年にわたりトップの座を守り続けています。全国平均(1万人あたり約1.5軒前後)と比較すると3倍以上、東京都区部や焼肉の激戦区として知られる大阪市などを大きく引き離す驚異的な密集度です。
なぜ本州の山間部に位置するこの街で、ここまでの店舗数が維持され、人々に熱狂的に支持されているのでしょうか。地元郷土史家や老舗肉店の店主らが語る歴史の転換点は、昭和22年(1947年)に市街地の大半を焼き尽くした「飯田大火」にまで遡ります。
当時、灰燼に帰した中心市街地にいち早く立ち並んだ復興バラックの屋台で提供されたのが、安価でスタミナがつく豚や牛のホルモン焼きでした。厳しい復興作業に従事する職人や運送業者にとって、脂の乗ったホルモンとニンニクの効いたタレは明日への活力を生む最大の御馳走となったのです。当時の屋台街の熱気について、市内の老舗精肉店「丸富」に連なる関係者は、過去の地元経済誌の座談会でこう述懐しています。『焼け野原の中で、煙をモクモクと上げて肉を焼く匂いだけが、人々に生きる気力を与えていた。あのときの原風景が、飯田の焼肉愛の原点にある』と。大火からの立ち上がりのシンボルとして焼肉が市民のDNAに刻み込まれました。
さらに見逃せないのが、飯田焼肉におけるマトン(羊肉)の定着です。南信州地域では大正から昭和初期にかけ、国策として軍用毛織物を確保するための緬羊飼育が盛んに行われていました。毛を刈り終えた羊の肉を無駄なく消費する知恵として、羊肉を独特のタレに漬け込んで焼く技術が進化。牛肉が高嶺の花であった時代に、安価で野性味あふれる旨味を持つマトンが庶民の食卓を席巻しました。現在でも飯田市民にとって「焼肉といえばまずマトン」という共通認識が定着しており、他地域とは一線を画す孤高の肉文化を形成しています。