ボルト氏以前のスプリント界において、「身長195cmの超大型選手は100メートル走で頂点に立てない」というのが長年の定説でした。身体が大きいと体重が増え、慣性の法則によってスタート時の加速が著しく鈍るうえ、脚の回転数(ピッチ)を速く保つことが困難だと考えられていたためです。
しかしボルト氏は、その物理的常識を力学的に粉砕しました。短距離走の速度を決定づける計算式は極めてシンプルであり、「ストライド(歩幅)× ピッチ(歩数回転数)」によって決まります。ボルト氏が起こした革命は、この2つの相反する要素を高次元で結実させた点にありました。
1. わずか「41歩」で100mを駆け抜ける異次元のストライド
通常、男子トップスプリンター(タイソン・ゲイ選手やアサファ・パウエル選手など)が100メートルを走る際、必要とする歩数は44歩から46歩程度です。日本を代表する選手たちであれば47歩前後に達することもあります。
これに対し、ボルト氏が9秒58を叩き出した際の歩数は、わずか41歩(正確には40.92歩)でした。100メートル全体の平均ストライドは約2.44メートルに達し、トップスピードに乗った中盤以降の最大ストライドは2.75メートル以上にまで広がっていたことが映像解析で判明しています。ライバル選手たちよりも4〜5歩少ない歩数でゴールに届くということは、接地による減速リスクをそれだけ減らせることを意味します。
2. 大型選手特有の弱点を打ち消した「高速ピッチ」
ストライドが広がるほど、脚を前方へ振り戻す時間が長くなり、ピッチは低下するのが人体の構造です。ところがボルト氏は、長大な四肢を持ちながら毎秒4.28歩という驚異的な脚の回転速度を維持し続けました。
これを可能にしたのが、強靭なインナーマッスルと、足首やアキレス腱が持つ「バネ(弾性エネルギー)」の極めて高い反発力です。地面に足がついている時間(接地時間)はわずか0.07〜0.08秒。体重94kgの巨体をトランポリンのように跳ねさせ、推進力へと変換し続ける天性のスプリング能力が、ストライドとピッチの両立という奇跡を現実のものにしました。