母方の岸信介が中央の権力中枢を駆け上がったのに対し、父方の祖父・安倍寛の歩みは徹底して「現場と弱者」に寄り添うものでした。
東大卒業後、地元・山口県日置村に戻った寛は、借金と不作に苦しむ農民の救済に私財を投じました。1933年に村長に就任すると、自らの給与をすべて返上し、困窮家庭の支援やインフラ整備に尽力。その無私無欲の姿勢から、地元住民からは「今松陰(吉田松陰の再来)」「大津聖人」と称賛され、深い信望を集めました。
安倍寛の名が憲政史に刻まれた決定的な出来事が、1942年4月の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)です。東條英機内閣は軍部支持勢力を当選させるため、大政翼賛会の「推薦候補」に莫大な資金と公権力の支援を与え、非推薦の反骨派候補には警察を使った凄まじい選挙妨害を行いました。
この過酷な状況下で、安倍寛は非推薦で立候補。特高警察の監視や演説妨害を受けながらも、「軍閥政治の打破」「言論の自由の回復」「立憲政治の護持」を堂々と訴え続けました。結果、全国屈指の得票率で見事に当選を果たします。当時、反東條・非推薦で当選した代議士には、後に首相となる三木武夫や、戦後日本社会党の重鎮となる議員らが名を連ねており、安倍寛の政治姿勢は極めて純度の高い平和主義と民主主義に基づいていたことが分かります。
しかし、過酷な政治活動と心労が祟り、終戦翌年の1946年1月、日本再建への志半ばにして心臓病のため51歳の若さで急逝しました。その高潔な生き様は、今なお山口県長門市周辺で語り継がれています。