信州を代表する冬の味覚として知られるとうじそばですが、そのルーツは長野県松本市の西端に位置する山深い集落、奈川(旧奈川村)にあります。標高1,000メートルを超える過酷な気候風土において、寒冷地でも育つ蕎麦は人々の命を支える貴重な主食でした。冬場に冷え切った蕎麦をどうにか温かく、かつ美味しく食べられないかという生活の工夫から生まれたのが、熱いつゆに蕎麦を「投じる」=「とうじ(投汁)そば」の始まりとされています。
木曽路から松本へと抜ける街道沿いや野麦峠のふもとでは、古くからハレの日のもてなし料理として親しまれてきました。現在でも松本名物として多くの観光客を惹きつける背景には、単なる温かい蕎麦(かけそば)とは決定的に異なる「食の体験価値」が存在します。大鍋を囲み、一人ひとりが自分の手で蕎麦をつゆにくぐらせる所作そのものが、家族や客人をもてなす温かいコミュニケーションとして機能してきました。
食べる際の重要な作法として、「蕎麦を決して鍋の中に放置して煮込まない」という鉄則があります。大鍋の中に蕎麦を直接放り込んでしまうと、蕎麦のデンプンが溶け出してつゆが濁り、繊細なコシと香りが一瞬で失われてしまうためです。籠を使って少量ずつ温めるという合理的なアプローチこそが、信州の先人たちが編み出した極上の知恵といえます。