大宰府に流された道真は、延喜3年(903年)2月25日、無念の思いを抱えたまま59歳でこの世を去りました。公式記録や手記から推測される菅原道真の死因は、衣食もままならない過酷な環境と極度の精神的ストレスによる衰弱死・病死とみられています。彼が残した私家集『菅家後集』には、「都を遠く離れ、身の潔白を訴える術もない」という痛切な孤立感が生々しく綴られています。
道真の没後、平安京では戦慄すべき異変が連続します。まず、道真を陥れた張本人である藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで急死。さらに醍醐天皇の皇太子や皇孫が次々と病に倒れ、都を疫病や洪水が襲いました。決定打となったのが延喜30年(930年)の「清涼殿落雷事件」です。内裏の清涼殿に巨大な雷が直撃し、道真の追放を主導した貴族たちが即死・重傷を負う惨劇が発生。このショックにより醍醐天皇も体調を崩し、わずか3カ月後に崩御しました。
人々はこの一連の厄災を「菅原道真の怨霊伝説」として恐れ慄き、朝廷は道真の霊を慰撫するため罪を赦免、右大臣への復権と正一位・太政大臣の追贈を行いました。そして京都に北野天満宮を建立し、雷神信仰と習合させた神号「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」として祀ることで、その怒りを鎮めようと図ったのです。これこそが、現在に続く天神信仰の歴史の原点です。