観念的な精神論で突き進んでいた攘夷派が、冷酷な現実の前に打ちのめされた決定的な契機が、1863年から1864年にかけて発生した二大軍事衝突――薩英戦争と下関戦争です。この惨憺たる敗北こそが、攘夷派の認識を根本から覆す転換点となりました。
文久2年(1862年)、武蔵国生麦村で薩摩藩主の父・島津久光の行列を横切ったイギリス人4名を藩士が殺傷した「生麦事件」が発生。賠償金交渉が決裂した結果、文久3年(1863年)7月、英国東洋艦隊の軍艦7隻が鹿児島湾に侵入し、薩英戦争の火蓋が切られました。薩摩藩守備隊は果敢に砲撃を加え、英国旗艦ユーライアラスの艦長を戦死させるなど一時的に奮戦したものの、最新鋭のアームストロング砲を装備した英国艦隊の報復砲撃により、鹿児島城下は瞬く間に灰燼に帰しました。この戦闘で薩摩側の砲台は壊滅し、城下の1割以上が焼失。薩摩藩は自国の旧式大砲では列強の軍艦に太刀打ちできない現実を骨身に沁みて理解させられました。
さらに悲惨を極めたのが長州藩の下関戦争です。文久3年5月、幕府が約束した攘夷決行期日(5月10日)を頑なに守った長州藩は、下関海峡を通過する外国船を一方的に砲撃しました。これに対し、元治元年(1864年)8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国連合艦隊17隻(大砲288門、兵力約5,000名)が下関に殺到。圧倒的な火力支援のもとに陸戦隊が上陸し、長州藩の前田砲台や壇ノ浦砲台は徹底的に破壊されました。鹵獲された大砲は60門以上にのぼり、長州藩の海岸防衛網は完全に粉砕されたのです。
当時、現場を目撃した英国外交官アーネスト・サトウは自著『一外交官の見た明治維新』の中で、敗北した長州武士たちが屈辱を呑み込みながらも、即座に西洋の近代兵器や戦術について熱心に質問してきた驚異的な適応力について言及しています。精神論による攘夷の完全な破綻を悟った薩摩と長州は、わずか数カ月後には英国との関係改善を進め、秘密裏に最新式のライフル銃や蒸気船の買い付けを開始。「外国を撃退するためには、まず外国から学ばなければならない」という逆説的なリアリズムが、ここに誕生しました。