Brother Baba Budanの店内に一歩足を踏み入れた訪問者が、例外なく息をのんで見上げるのが、天井一面に隙間なく吊り下げられた無数の椅子です。この独創的なインスタレーションには、単なる「写真映え」を超えた都市文化への批評性とウィットが込められています。
2007年のオープン当時、メルボルンの中心業務地区(CBD)では空前のカフェブームが巻き起こり、どの店も席を確保することが極めて困難な状況にありました。創業者であるマーク・ダンドン氏とブリジット・エイモア氏、そして地元の空間デザイナーが着目したのは、「床に座る場所がないのなら、天井に椅子を設えればいい」という強烈なアイロニー(風刺)でした。ヴィンテージの曲木椅子(ベントウッドチェア)を反転させて天井に敷き詰めることで、極小物件特有の圧迫感を打破し、来店客に「席を探す不条理」をユーモアとして体感させる構造美を完成させたのです。
さらに、この店舗を語る上で欠かせないのが「ババ・ブーダン」という特異な店名です。その背景には、17世紀の珈琲史における劇的な冒険譚が横たわっています。当時、アラビア半島のアラブ勢力は珈琲の苗木や発芽可能な種子の持ち出しを厳格に禁じ、生産の独占権を握っていました。その厳戒態勢の中、インド出身のイスラム神秘主義者(スーフィー)である聖者ババ・ブーダンは、メッカ巡礼の帰途、イエメンのモカから「7粒の肥沃な生豆」を布に包んで自らの腹部に縛り付け、警備をすり抜けてインド・マイソール地方(現カルナータカ州)のチャンドラギリの丘へと持ち帰ることに成功しました。
この7粒の種子がインドで発芽し、やがてヨーロッパ植民地網を経て世界中へスペシャルティコーヒーの潮流をもたらす契機となりました。同店の親会社であるロースターが「Seven Seeds(7粒の種)」と名乗り、その都心型コーヒースタンドが「Brother Baba Budan」と命名されたのは、禁忌を冒してまで珈琲の喜びを民衆へ解き放った先駆者への深い畏敬の念が根底にあるからです。