フィクション作品や大河ドラマの影響により、竹中半兵衛には「軍師」という固定観念が定着していますが、歴史考証の観点からはいくつかの誤解や盲点が存在します。
第一の誤解は、「戦国時代に現代人がイメージするような参謀専任の『軍師』という役職が存在した」という点です。当時の軍制において軍師という正式な官職はなく、半兵衛の本質は秀吉の「与力武将」であり、取次役(外交・調略担当)や城代を務める実戦指揮官でした。白扇を振って後方で策を練るだけのインテリではなく、自ら軍勢を率いて前線に立つれっきとした武将だったのです。
第二の誤解は、有名な竹中半兵衛の逸話である「稲葉山城乗っ取り」の動機に関するものです。永禄7年(1564年)、当時美濃の斎藤龍興に仕えていた半兵衛は、わずか十数人の手勢で難攻不落の稲葉山城(後の岐阜城)を奇襲占領しました。この一件は「天才のスタンドプレー」として語られがちですが、実際は放蕩にふけり政治を疎かにしていた主君・龍興を命懸けで諌めるための「諫死覚悟の抗議行動」でした。
城を奪った後、織田信長から「美濃半国を与えるから城を明け渡せ」と破格の条件で誘われたものの、半兵衛はそれを一蹴し、半年後には主君の龍興へ城を無条件で返還して隠棲しました。己の野心や立身出世のためではなく、純粋な信念のために知恵を使ったからこそ、信長も秀吉も半兵衛の知謀と人間性に畏敬の念を抱いたのです。