歴史ファンや読者の間で常に議論の的となるのが、史実における昌文君の死亡時期と作中の描写の乖離です。司馬遷の著した『史記』秦始皇本紀には、昌文君に関する決定的な記述が存在します。
史実では、紀元前238年に発生した「嫪毐(ろうあい)の乱」の際、昌文君は昌平君とともに軍を率いて反乱軍を鎮圧。その功績によって領地を賜りますが、わずかその翌年となる「始皇十年(紀元前237年)、昌文君卒す」と簡潔に記されています。つまり、歴史の厳密なタイムラインに沿えば、昌文君は趙国攻略(鄴攻め)の遥か以前にこの世を去っている計算になります。
しかし、『キングダム』の連載は紀元前230年代後半から220年代へと突入した現在も、昌文君が咸陽で精力的に執務をこなす姿を描いています。これは原泰久氏が意図的に施した歴史の再解釈・創作的改変と見るのが妥当です。読者の間でも「史実通りに病死退場させず、中華統一の最終局面まで嬴政の隣で見届けさせるのではないか」という生存ルートへの期待が根強く支持されています。