豊臣秀吉と千利休の確執は、単なる感情の行き違いではなく、「美の主導権」と「政治体制の純化」を巡る構造的な衝突でした。
秀吉は豪華絢爛な「黄金の茶室」に象徴されるように、圧倒的な富と権力を誇示する美を求めました。対して利休は、粗末な土壁とわずか二畳の空間で精神性を極限まで高める「侘び茶」を至高としました。秀吉にとって、自らの権威をも超越する価値基準を民衆や大名に植え付ける利休の存在は、次第に脅威へと変わっていったのです。
さらに決定的だったのが、外交・軍事方針を巡る政治的意見の相違です。秀吉が推し進めようとしていた朝鮮出兵(唐入り)に対し、利休は終始批判的な立場をとっていました。また、両者のパイプ役であり政権のバランサーであった秀吉の弟・豊臣秀長が天正19年1月に病没したことで、利休を擁護する防波堤が完全に消滅。秀吉の独裁化と利休排除の動きは一気に加速しました。